プリゴジンが暗殺された

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傭兵集団「ワグネル」の統率者プリゴジン(↑)が乗った航空機が8/23に墜落し、彼は死にました

暗殺常習犯プーチン(←)は、これまでに少なくとも数十人の政敵を暗殺しています

ですから、プリゴジンもいつものようにプーチンに暗殺されたなと世界中の人が思っています

日本の戦国時代の末期に、家康と秀吉が戦場で直接戦った数少ない戦(いくさ)に、小牧長久手の戦いというのがあります

大河ドラマの場面だったと思いますが、この戦で一時的に勝利した家康方の武将が、家康に向かってこう言います

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「今度ばかりは、

 秀吉もホトホト参ったでしょうな」

すると、秀吉という人間を知り尽くしていた家康は

「馬鹿を申せ!

 あれがホトホト参るようなゴジン(御仁)か!」

と叱りつけます

ドラマの中の発言ですから、史実かどうか知りませんし、どうでもいいことです

実際、秀吉はホトホト参ったりせず、この戦(小牧長久手の戦い)は、どちらが勝ったかはっきりしないままで終わり、やがて家康が秀吉に形式的な臣従をすることになります

今回、プリゴジンが死んだ(暗殺された)というニュースが流れたとき、

「馬鹿を申せ! あれが簡単に暗殺されるようなゴジン(御仁)か!」

と思った人も多かったのではないでしょうか

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若い頃に強盗、詐欺、売春ほう助などの詰まらない犯罪で捕まり、9年間も刑務所暮らしだったプリゴジン

よほど地頭(じあたま)が良かったのか、そこからメキメキのし上がって大実業家になり、プーチンに接近して傭兵集団「ワグネル」を組織、ウクライナ戦線では正式なロシア軍より活躍しました

日米欧のような「国軍」(こくぐん、近代国家の正規軍)が確立している現在の先進文明国では考えにくいことですが、ロシアとかアフリカなどの途上国では、今でも特定個人に率いられた傭兵(私兵)集団が戦争で活躍しています

中にはゲリラ化した私兵集団が国軍(政府軍)と戦って内戦化している国もあり、さらに複数の私兵集団が互いに争って占領地を奪い合い、日本の戦国時代のような様相を帯びている国もあります

実は日本でも戦国時代には、特定の親玉に率いられた私兵集団(「××衆」などと呼ばれていた)が軍団の基本単位で、その親玉を束ねていたのが戦国大名でした

個々の武士の忠誠心は、その親玉に対するものであって、その上にいる大名には向けられていなかったのです

親玉が大名を裏切れば、その下の武士(兵士)たちも簡単に寝返ります

現在の日本のヤクザが、例えば「山口組系の××組」に所属していたとして、そのヤクザの忠誠心は××親分に向けられていて、山口組のトップに向けられている訳ではないのと一緒です

武士が忠誠心などを持ち出して裏切りを嫌うようになったのは、平和な江戸時代になって武士がサラリーマン化してからで、戦国時代の武士は少しでも良い条件を示されたら簡単に寝返りました

しかも戦国時代の武士(兵士)たちは、平時には農民で田畑を耕しており、武器(ヨロイ、カブト、刀、槍、弓矢など)は自前が原則で独立心が旺盛でした

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「これではダメだ!」と織田信長はいち早く気付いて、兵農分離で武士(兵士)の専業化をすすめ、武器も上から支給される方式に改め、バラバラな私兵集団の忠誠心を一本にまとめて「織田軍」に再編成しようと努力しましたが、志半ばで本能寺に消えました

さらに二百数十年が過ぎ、江戸時代の末になっても、日本国内の武士の忠誠心は各自が属する「藩や藩主」に対するもので、徳川家や将軍に対するものではなかった(徳川直属の旗本などを除く)

出来たばかりの明治政府のリーダーたちは、「これではダメだ!」と気付いて、富国強兵の強兵を担う「国軍」、つまり国家に忠誠を誓う軍隊を創ることに腐心します

人間の集団というものは、バラバラだと内部的には自由で居心地がいいですが対外的には弱く、近くに強い集団があれば簡単に滅ぼされてしまいます

当時の弱肉強食の国際社会で、明治日本という出来たばかりの弱小国家が生き残るためには、まずバラバラな国家を統一することが最優先課題だった訳です

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これを実務的に担当し、最も強力に推進したのが明治の元勲、山縣有朋(やまがたありとも、←)です

彼は「軍人勅諭」「教育勅語」などを制定し、これらを用いて当時の兵隊や国民に対して洗脳に近い徹底した皇国教育を行い、バラバラだった弱小徳川日本を、天皇の元に一つにまとまった強力な明治日本に変えていきます

彼がトコトン冷徹だったのは、彼はその皇国プランの中で、天皇ですら単なる一つの道具(ツール)と考えていたフシがあることです

松本清張の小説に「象徴の設計」という作品がありますが、山縣有朋が当時最高の文化人だった西周(にしあまね)と協力しながら、軍人勅諭の文言を練り上げてゆくプロセスが詳細に描かれています

彼は和歌を愛し、生涯に多数の自作和歌を残しているように、言葉に対して非常に繊細な感覚を持っていたようです

軍人勅諭の制定にあたっても西周に丸投げせず、細かい一言一句に至るまで西周と細かい議論を重ねています

位人臣を極めて内閣総理大臣もつとめ、明治政府のトップリーダーだったにも関わらず、当時の日本国民からの山縣有朋への人気は最低で、むしろゴキブリのように嫌われていたと言った方が正しそうです

いかに国家社会の生き残りのためとはいえ、それまでの居心地の良かったバラバラな社会に強力なタガをはめ、自由を奪うようなことをしたのですから、下々の国民から嫌われるのは当然でしょうね

多様な考えを持ったバラバラな人間たちをまとめて、一つの統合された組織なり集団を構成するという仕事は、なかなかキレイゴトだけでは済まず、彼のような汚れ役、嫌われ者が必要になるようです

先日尋ねた小田原の松永記念館(電力の鬼、松永安左ヱ門の旧宅)のすぐ近くに、山縣有朋が晩年を過ごした「古稀庵」という別荘があります(ちなみに本宅は現在の椿山荘で、椿山荘という名称は山縣有朋が名付けた)

和歌と作庭が趣味だった山縣有朋にとって、その生涯の二大作品は、軍人勅諭と椿山荘の庭だったのかもしれません

古稀庵、近日中に尋ねてみようと思っています

 (^_^;)

 

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