▲若い女性たちに囲まれ満面の笑みを浮かべる毛沢東(1957年)
彼はこの翌年から「大躍進」政策を始動する
1950年代後半に、チャイナチス中国共産党の毛沢東が推進した「大躍進政策」で、少なくとも数千万人が餓死したとされています
人類史上で最大の虐殺です
とにかく、この時代の中国に生まれなくて良かった!と、しみじみ思います
このような狂気の政策を推進した毛沢東は、今でも中国の英雄として崇拝されています
恐ろしいことです
((((;゚д゚))))
北京で幼少期を送った映画監督の陳凱歌は、自らの半生を綴った
『私の紅衛兵時代』(講談社現代新書 1990年)
で、
「いまでも私は覚えている。マーケットの周りで野菜の根やクズを拾い集めては、細かく切り、サツマイモの粉で包んで野菜団子を作った。両手でそっと持ち上げないと、ばらばらになってしまう。学校にいた大勢の子供のなかには、休み時間に大豆を五粒もらえるのを楽しみにしている子もいた。香ばしくなるまで煎ってから、汗がでるほど手に握り締めて、それからしょっぱいのを一粒ずつかみしめる。それでも、足にはむくみが浮いたままだった」
と、当時を振り返っている。
首都でこの惨状である。
ならば地方は想像を絶するばかりだった。
「河南省では、生産目標で決められた国への売り渡し穀物を確保するために、武装した民兵が、小さなほうきで農民の米びつの底まできれいに掃き出していた。さらに封鎖線を張って、よそへ乞食にでることを禁止した。まず木の皮や草の根が食い尽くされ、やがて泥にまで手が出された。そして、道端や畑、村の中で人々がばたばたと死んでいった。三千年にわたり文物繁栄を謳われた中原の省に、無人の地区さえできてしまったのだ。後になって、後片付けの際、鍋の中から幼児の腕がみつかった」
と、陳凱歌は記す。
陳の生まれは1952年8月で、習近平は1953年6月。
習近平の両親ほどではないにしても、陳の両親もまた共産党の幹部だった。
だとするなら習近平も陳と同じような生活環境に在ったはずであり、同じような記憶が頭の片隅に今でも刻まれていることだろう。
まるで幽鬼に充ちた地獄絵図のような惨状について、当時の日本では伝えられることはなく、
「中国にはハエ一匹いない」
「誰もが豊かで満ち足りた生活を送る地上の楽園」
と言った類の見解が、学界やメディアで大いに喧伝さていたものだ。
当時の日本は60年安保闘争が盛り上がり、革新勢力、進歩的知識人、親中系政治家・経済人・メディア関係者などが、アゴアシ付きで中国に招待されていた。
「樋泉克夫のコラム」より